「でも武人としては『盟友』の心を守るべきだと思った。ただそれだけだ」

 懐かしい声に胸を締めつけられ、目を開く。同時に世界が形作られ、足下から青い絨毯が伸びていった。それに引っ張られるように感覚が広がり、兵士たちの慌ただしい足音が耳に届き始める。馬のいななく声も遠くから響いてきた。百人以上は入ろうかという室内を満たす空気は重く、肌にねっとりとまとわりついてきて気持ちが悪い。無傷なはずの石壁の溝からは血が滲みでてくる気すらした。――避けられない、戦の気配だ。

 猛烈な焦燥感で全身に鳥肌が立つ。
 ぶるぶると震え、どうにかしたいと思いながらも体が動かないのは、ここが現実ではないからだろう。もしくは、これから起こる悲劇に対する防御反応。
(私、またこの夢を見ているのね)
 危うい状況なのに頭の片隅では冷静に考えられるという夢独特の奇妙な感覚は、私に安堵を与える一方で、深い悲しみにも突き落とした。
 私は、この夢の終わり方を知っている。何度見ても変わらない、ある意味どんな内容よりも酷い結末だ。
 逃げたい衝動に駆られながらも、絶望的な気分で面を上げる。
 徐々に目に入ってくる早く走れそうな軍靴、漆黒の長衣、浅黒い腕に絡む精霊の紋様。
 全てが懐かしく、私は涙声まじりに名を呼んだ。
「スレン……」
 今はもういない、かつては夫とも呼んだ、私の盟友。

「これから出陣だっていうのに辛気臭い顔で見送るなよ」
 スレンは夫婦であった頃にはあまり見せなかった――いや、夢の中だからこそなのか、穏やかな顔で笑う。あの日を再現しているはずなのに、彼の様子だけは事実と異なっていた。
 私は自分にとって都合の良い表情を作ってしまったことに落ちこみつつ、緩く首を振って頭を垂れた。
(どう言えば、貴方は留まってくれるのかしら……)
 やり直せないとわかっていても、繰り返し見てしまう夢。私次第では違う未来があったかもしれないと、心のどこかで思っているからだろう。
「私、言わなきゃいけないことが……」
「なんだ?」
「……」
 伝えたい言葉は山ほどある。しかしこの先を知っている身としては、どれを言っても傷つけてしまうのではないかと躊躇われた。
 衣の前を握り、浅い呼吸を続け、口を開閉させる。
 そんな煮え切らない態度に呆れたのか、スレンは場違いなほど軽い調子で「じゃあな」と言って踵を返してしまった。
 黒い衣の裾が翻るのを視界の端に捉え、私はたまらずに顔を上げて叫んだ。
「待って、スレン!」
 スレンの歩みがぴたりと止まる。だけど背は向けられたままで、すぐにでも出ていってしまいそうだった。
 頭の中で、警告音が鳴り響く。

 だめだ、彼を行かせてはいけない。
 この扉が閉まったら、もう彼の顔を見ることは……。

 焦って走りだそうとした私は、しかし軽い溜息に牽制された。
「どうしてだ? 俺が行かないと、お前は困るだろ」
 ぎくりとして全身の筋肉が硬直する。
 私の愚かなまでに正直な反応を笑い、スレンが少し頭を傾ける。私の動揺を示すかのごとく軍帽の飾りが揺れた。
「俺を止めたら、お前の願いは叶わないぞ」
 確かにこの時スレンが出陣していなければ、私は今の夫――ナランとは結ばれなかった。恋は恋のままで終わっていただろう。
「でも、私……」
 攫われ、無理やり乙女を奪われ、妻とされた。経緯を並べると酷いとしか言えないが、スレンと過ごした日々を私は否定したくなかった。
 憎しみの果てに芽生えた友情は、どんな国同士であっても手を取りあえるということの証だ。それにスレンという盟友がいたからこそ、私はナランと出会えたのだから。
「黙って見送るのが賢明だ」
「違うわ、……違う」
「なにが、違うんだ?」
 私はスレンといた過去を恥じていない。そう思ってはいても、伝えるのはナランへの裏切りになる気がして、舌がうまく動かなくなった。一生懸命声を出そうとしても、掠れた息しか漏らせない。
(言わなきゃ。だけど、言ったら……)
 夢と現実の判断がごちゃ混ぜになる。
 混乱して息を詰まらせていると、短い溜息の後に靴音が響いた。
 はっとし、遠ざかっていくそれを引き留めるべく駆けだす。
「行ってはだめ! ここを出たら、貴方はもう二度と……!」
 叫んでも無駄だというのは知っている。どうせ今回も、私はスレンを引き留められない。
 指先は空を切り、彼は部屋から出ていって――
「……お前は相変わらず不器用だな。夢の中でくらい自由に振る舞えよ」
「え」
 突如振り向いたスレンに、ぱしりと伸ばしていた手を掴まれる。今までにはなかった展開に茫然としてしまい、夢の中だというのに「次はどうしたらいいのだろう」と真剣に考えた。
「そんなんだから、余計な苦労すんだよ」
 ニヤリと口端を吊りあげた彼独特の笑い方をして、すっと私の手を離す。
 また不安になって眉を顰めると、スレンは頭に巻いていた飾り布をとって、私の片方の手首を緩く縛った。拘束するには不十分な縛り方だし、腕を下げたら落ちてしまいそうだ。
 私が目顔で問うと、意地が悪いのに、どこか優しさも感じさせる声が言った。
「さて、どう答える?」
 夢だからなのか、会話が繋がっていない。どういう意味か聞こうと口を開いたのだけれど……
「あ……!」
 景色が段々と白く霞んでいく。
 目の前にいたはずのスレンも見えなくなって、焦った私は力の限り叫んだ。
「待って、スレン! 行っては――」


「行ってはだめ! っ……、……れ?」
 突きだした手の向こうに見慣れた天井が広がっている。目端にたまっていた涙が流れて物の輪郭が鮮明になってくると、ようやく自分がどこにいるのか理解した。
「夢……」
「目覚めてくれてよかった。あんまりにもうなされてるから、そろそろ起こそうかと思ってたんだよ」
 仰向けになっている私の隣から柔らかな声が聞こえてきて、夢の中と同じく体を強張らせる。反射的に目をつむったのは、たぶん罪悪感のせいだろう。
「ごめんなさい、……ナラン」
 閉ざした瞼の裏には苦笑する夫の顔が浮かぶ。
 予想通り、私の額にかかった髪を払う彼の手つきは優しく、慰められているのを知った。
 震える睫毛を少しくすぐって、指先が離れていく。
「どうして謝るの?」
「だって……」
 夫の隣で眠りながら、違う男性の夢を見たのだから。
 申し訳なくて口を開けずにいると、離れていた手が戻ってきて、ふわりと肩を撫でた。
「今夜は満月だからね。兄貴が心配して降りてきてくれたのかも」
 全てを見通しているふうな言い方に観念して横を向けば、大きな茶の瞳が優しげに細められた。あの夢の頃よりも大分精悍な印象になった頬に、甘い笑みが浮かぶ。
 この笑顔に、幾人の貴婦人が心を奪われたのだろう。
 慣れたはずのそれに見惚れてしまい、変わらない自分自身に苦笑して視線を逸らす。
 これではスレンに見破られるわけだ。あの頃も、今も、私はナランへの恋心を隠せない。
「おいで」
「……うん」
 全てを無条件に許すような、柔らかな声。魅惑的なそれに誘われれば、抵抗する気などあっという間に崩れ去ってしまう。
 私はもぞもぞと移動し、伸ばされた腕の中に体を落ちつけた。深く息を吸いこみ、愛する人の匂いで鼻腔を満たす。そうしてようやく、ちゃんと現実に帰れた気がした。
「ナラン……」
「ん?」
「……なんでもない」
 泣きたくなるのは、どうしてだろう。
 涙をこらえ、額を逞しい胸に押しつける。
 するとナランが私の頭を撫でて言った。
「俺たちは大切な人を失ったんだから、夢を見るのは自然なことだよ」
「でも、一度や二度の話ではないのよ。いい加減、乗り越えなければいけないことなのに……」
「完全に乗り越えられる日なんてこないんじゃないかな。大切だったからこそ、何度でもその日に立ち返って、何度でも後悔する。でもそれだけじゃ生きてはいけないから、俺たちは歯を食いしばりながら悲しみを押し返して進んでいくんだ」
「……それじゃあナランの歯は、そろそろすり減ってなくなっちゃうわね」
「そうでもないよ。君が一緒に押してくれるから、老後までもちそうだ」
 冗談めかしているけれど、本心を語ってくれているのが声音や視線から
伝わってくる。
 それが嬉しくて、でも自分の不甲斐なさを思うと苦しくて……、きゅっと唇を噛んだ。
(ちゃんと一緒に進めるように、私ももっと強くならないと)
 私はナランに合わせて笑いながらも、心の中では強く決意していた。
 まさかその決意が――

「……翌日に試されることになるなんて思わなかったわ」
 昼の陽光に溢れる城の廊下で、天気とは真逆のどんよりとした気分で呟く。
「なにかおっしゃいまして?」
「いいえー、なにも」
 にっこりと笑って嘘をつけば、私の行く手を阻むように……というより事実阻んでいる美女三名が面白くなさそうに鼻を鳴らした。
(最近来るようになった大陸外のお姫様って、どうも苦手なのよね……)
 腐死が落ちついたのを見計らってのことか、近年ではナスラの貴族に嫁いでくる姫君や令嬢が多い。ノールいわく「近隣諸国のご機嫌取り」とのことだから、もちろん恋愛を経ての結婚ではないだろう。
 そのせいか、どうやら彼女たちの間では若き軍事司令官であるナランの愛好会が結成されているらしい。
 なんとなくだけれど、気持ちはわかる。貢物同然で送りだされた身としては、何か熱中できる対象が必要なのだろう。
(だからって私に絡まないでほしいけれど……)
 軍事司令官の妻だから公の場で嫌がらせをされることはないものの、人目がないところでは軽い嫌みを言われたりする。たとえば、こんなふうに……
「ルスの王家は節約がお上手だと聞いておりましたが、そのように妻自らが厨房に入って『お弁当』を作ってくるなんて……、噂以上の清貧の精神でいらっしゃいますわね。甘やかされて育ってしまった私たちには到底真似できませんわ」
 きつく巻かれた髪が特徴的な彼女は、そう言って私の腕の中にある弁当箱を目で示した。必要以上に己を卑下してみせる様は下手な舞台女優を彷彿とさせる。
 間違いなく、謙虚という皮を被った嫌みだ。私が王家の血を継いでいないことや、牧歌的な雰囲気のあるルスを貶しているのだろう。
(確かに、貴女がいた都に比べたら田舎かもしれないけど……)
 故郷を馬鹿にされ咄嗟に言い返しそうになり、喉奥でぐっと堪える。
 たしか彼女の夫は、十二賢者の内の一人だ。軍事司令官のほうが立場は上だといわれているが、軍部と議会の微妙な関係を考えれば、下手な言い争いはできない。
 ナランの立場を悪くしたくない一心で、私は口角を無理やり上げる。
「よろしければ今度お教えしましょうか。やってみれば楽しいものですよ」
 ああ、作り笑いを浮かべ続けたせいで頬の筋肉がつりそうだ。この調子では、ナランの歯が欠ける前に私の歯のほうが磨り減ってしまう。
「それは有難いですわ。やはり二度も結婚された方は、ただ作れるだけではなくて、そのお料理の種類も豊富なのでしょうね」
「……ええ、そうですね」
 私が動揺を表に出さなかったのが悔しかったのか、段々と嫌味があからさまになってきた。
 近年になって嫁いできた者たちからしたら、かつてこの国の女たちを縛りつけていた忌まわしい法律は耳に挟んだ程度だろうし、当時ナスラにいたとしても貴族の嫁が被害にあう可能性はなかった。それを誇りに思う姫君がいるのは知っていたけれど、実際に面と向かって言われると、構えていても衝撃を受けた。次いで激しい怒りが込みあげる。
(当時のナスラの女たちが、どんな思いで生き抜いたか知りもせずに……)
 どす黒い靄が胸中で膨らむ。それが爆発するのを必死で抑えていたのに、追い打ちをかける言葉が重ねられた。
「不可抗力とはいえ、そこまでお上手になられるのは大変だったのでしょうね。以前の旦那様は平民出身で、かなり横柄な方だったと聞いておりますもの」
 ナランも平民出身ですが、という言葉はさらなる嫌みを呼びそうだから飲みこんでおく。
「……彼は、確かに自分勝手なところもありましたが、決して横柄な人間ではありません。部下思いで、臣民のために体を張り、それこそ大切な者のために命を落とすほどの高潔な魂をもった武将でした」
「あら、無理矢理こちらにつれてこられたのに、庇われるのですね」
 おそらく望んでいた通りの返答だったのだろう。私の言葉を受けた彼女は、さらに得意げになって笑みを深める。両脇を固めていた女性たちからも「やはり二度も結婚されると……」という嘲笑まじりの声が追加された。
 背に隠していた握り拳が震える。大切なものや人を貶され続け、いい加減私の我慢は限界に達していた。
(っ、だめ、だめよ。冷静にならないと。私が下手なことをしてナランの信用に傷をつければ、せっかくナランが築いた議会との関係が崩れてしまう)
 本当は今すぐにでも頬を張りたい気持ちを抑え、せめて皮肉で返してやろうと口を開く。
「ええ、そうですね、さすがに二度も結婚していると――」
「していると、どんな男でも彼女の料理の腕には逆らえない。その美味しさをおぼえてしまえば、あの国王陛下ですら我が家に通ってしまうほどですから」
 突如響いた穏やかな声に、その場にいた全員が固まる。
 姫君たちの背後から悠然とした足音が聞こえてくると、私は何ともいえない気まずさで眉根を寄せた。
 一番食ってかかってきていた女性が、血の気が失せた頬をびくつかせる。
「ナ、ナラン様……」
「歓談の邪魔をしてしまって、すみません」
「いえ。ちょうどお話が終わったところでしたので……」
「ああ、そうだったのですね。盛り上がっているように見えたので、ご気分を害してしまったのではないかと心配だったのですよ。私の妻と親しくしていただきまして、有難うございます」
「お、おほほ。私こそ御礼申し上げますわ」
「ああ、そういえば……皆様のことを政務補佐殿が呼んでいらっしゃいましたよ」
「え、なぜ私たちを?」
「さあ、私にはわかりかねます。ですが政務補佐殿は、皆様の故国に非常に興味をお持ちでいらっしゃるようで、ぜひ内々に……、できれば誰もいないような夜半にお話しがしたいとのことでした」
「あら……、政務補佐殿のお誘いでしたら断れませんわね。夫のために、すぐにでもお伺いする準備をいたしましょう」
 口では夫のためと言いつつ、顔は明らかに喜んでいる。こちらに来たばかりの彼女の目には、まだノールは『国一番の美貌を持つ重鎮』としか映っていないのだろう。
(ノールに呼ばれるなんて……。彼女たち、大丈夫かしら)
 影でどんな噂が流れていても、実際に体験してみなければ、ノールの性根の悪さはわからない。あの男は天才的な頭脳を全力で駆使して、生きているのが嫌になるほどの仕打ちをするのだ。それはもう精力的に、喜々として。
 ノールの本性を知っている私としては、つい先ほどまで嫌みを言われていたのも忘れて心配してしまう。
 ちらりとナランのほうを窺うと、にこーっとした笑顔が返されて、ますます不味い予感がした。「あ、これはだめだ。ものすごい怒っている時の笑顔だ」と妻である私には一目でわかる。
 ナランは出会った頃よりも遥かに逞しく、余裕を感じさせる男になった。が、一度キレるとある意味スレンよりも恐い怒り方をする。普段穏やかな人を怒らせると……、というのは彼にも当てはまるらしい。

 姫君たちが(己に降りかかる悲劇を知らずに)いそいそと準備に向かうのを複雑な気持ちで見送った後、やや抑えた声で問いかけた。
「本当にノールが呼んでたの?」
「本当だよ。ノール様は彼女たちの故国の内情を知りたがっている。それに嫁いできたばかりで勝手がわかっていない彼女たちの身を案じていてね。『ナスラに適した立ち居振る舞いを教えて差しあげたい』んだってさ」
「……あのお忙しい政務補佐サマが、わざわざ時間を割いて教えてくださるのなら、さぞかし厳しい授業なのでしょうね」
「気になる?」
「ノールの逆鱗に触れるほどのことをしたとは思えないから、ちょっと気の毒で」
「はは、最近の君はノール様のお気に入りだからなぁ。彼女たちは十分逆鱗に触れてるよ」
「お気に入りだなんて、貴方の勘違いよ。あれは、ただ目をつけられちゃっただけというか……」
 少し前に開かれた、大陸外からの使者を招いた晩餐会でのことだ。会場から出て涼んでいた私に、一人の酔っ払いが絡んできた。男は私が城で働いている者だと誤解したらしく、気安い調子で酒を持ってこいと要求した上に、べたべたと触ってきたのだ。あげく「下賤な者が相手をしてもらえるだけでも有難く思え」と言って押し倒してきたから……
(つい反射的に殴っちゃったのよねぇ)
 貞操の危機を感じてのこととはいえ、あわや国際問題になりかけたのだが、件の現場をノールが目撃していたらしく、無事お咎めなしとなった。とはいえ、ノールが裏で何かしたのは想像に難くない。
 後で聞いた話だが、なんと男はノールの兄だったらしい。
 私は迷惑をかけたのだし、血縁者を殴り倒したとなればノールも黙っていないだろうと構えていたのだけれど、なぜだか称賛の御言葉を賜るという結末で……。以降、妙に絡んでくるようになって正直困っている。
(ノールにどんな思惑があるのかわからないけれど……、とにかく彼女たちの心の傷が浅いことを祈るわ)
 嫌がらせをしてきた人間だからといって、酷い目にあえばいいとは思わない。むしろ、せっかく国外から嫁いできた者同士なのだから、いつか仲良くなれればいいと考えているくらいだ。
(せっかく平和に嫁いで来たんだから、できれば幸せになってほしいのよね)
 そんなふうに彼女たちの身を案じていたら、
「……君は、兄貴の妻だったことを恥じているの?」
「え」
 唐突に問われて、思考が追いつかなかった。見あげた先に、すっかり笑みを落としたナランの顔があって、やや慌ててまくしたてる。
「違うわ! 今の私はスレンを誇りに思っているもの」
「じゃあそう言えばいい」
「貴方は簡単に言うけれど、私の立場では彼女たちの言葉にどう答えればいいのか……、っ!?」
 言っている途中で、ぐっと腕を掴まれる。そのまま物影に引っ張りこまれ、ひんやりとした石壁に押しつけられた。痛くはないけれど、ナランにしては珍しい強引さに驚いて声が出せない。
 私が動揺している内に、ナランは常日頃から頭に巻いているスレンの形見を外した。そして器用にも片手と口を使い、驚くべき速さで私の手首と自身のそれを縛った。
 しっかりと結ばれていて、簡単には解けなさそうだ。
「ナラン……?」
 問う声をあげれば、ナランのもう片方の手が私の丁度顔の横――背後の壁をトンと叩いた。
 綺麗な顔が間近に迫り、どきりと胸が高鳴る。夫相手だというのに緊張した。

「これが、答えだ」

 目と鼻の先で動いた、形の良い唇が告げる。
 何のことかわからずに眉根を寄せていた私だったけれど、ナランの真意に気がつくと今度は切なさで眉尻が下がった。
 スレンの形見で結ばれた私たちの手首は、様々な意味を体現している。
「これが今の俺たちを作ってくれた、三人の絆だよ。こうして結ばれたことを俺は誇りに思ってる。誰がなんと言おうともね。だから妻である君にも、胸を張ってほしい。馬鹿にするヤツがいたら怒っていいし、俺のことも気にしないでいい」
「でも、それでナランの立場が危うくなったら……」
「それしきの障害で失脚するような男なら、元から軍事司令官の器ではなかったってことだよ」
 軍事司令官というこの国の誰しもが憧れる座を、少しも惜しくないのだというふうにさらりと言ってのけるナラン。
 私は一人胸を高鳴らせてしまっている現状を少し悔しく思う反面、余裕を感じさせるナランの態度を頼もしくも思っていた。
「前にも言ったけれど、最近の貴方は余裕がありすぎて悔しいわ。私一人が慌ててる」
「そうかな」
 ぎりぎりまで近づけていた顔を傾ける動作が、口づける前ふりのようで艶めかしい。
「余裕なんてないけど、あるように見えてるとしたら兄貴のおかげかな」
(本当に、そうね、ナラン。今の私たちの強さは、スレンなくしてはありえなかったかもしれない)
 改めて思うと、ナランの頼もしさの中にスレンの影を感じた。
 代わりとして見ているとか、そういう意味ではない。スレンという男がかつて存在して、私たちを見守っていたことを強く感じられたのだ。
 そして今は、この胸に信念として残っているスレンが、私たち二人を守っている。月と地上に離れたとしても、この絆が断たれることはない。
 そこまで考えて、ふと昨夜の夢を思いだした。「あ」と短い声をあげながら結ばれた手首を見て、じわりと目の奥が熱くなる。
 くすりという笑い声と共に視線を落とし、軽く瞼を下ろす。ナランが不思議そうに首を傾げた気配を察して、再び顔を上げた。
「……わかったわ。今度からは、もう我慢しない。次にスレンに会った時に怒られちゃうしね」
「そうだよ、いつかはまた会えるんだから、兄貴の雷に耐えられるくらい心臓を強くしておかないと」
 冗談っぽい言い回しとは裏腹に、瞳の中はあくまで真剣だ。全てを惹きつける信念の強さを感じる。
 私がそれに魅了されている間に、こつんと軽く額同士がぶつけられた。
「たとえ離れたとしても、共にいた時を愛しく思う限り、また同じ場所に帰れる。俺たちの時間は、そうしていつまでも続いていくんだ」
 羽のような柔らかな口づけが訪れる。甘くついばまれる度に体の輪郭がふやけてナランと一つになっていく錯覚に陥り、刹那の恐ろしさに震えた。私を現実に繋ぎとめるものがほしくて、スレンの形見で結び合わされているほうの指を深く絡める。
 幸せすぎて恐いなどと言ったら、ノールあたりに嘲笑されるだろうか。いやもしかしたら、あの政務補佐サマのことだから、言う前にこの状況を知っているかもしれない。なにせ城内には彼の手駒があらゆるところに潜んでいるのだ。
(なんて、さすがのノールもそこまで気にしてないか)
 ちらりと頭を過ぎった考えを笑い、薄く唇を開けてナランの舌を招き入れる。
 段階的に深くなる口づけは、とろみのある果実酒の中にずぶずぶと沈んでいく心地にさせた。
 唾液が甘く感じて、擦れあう濡れた肉が熱くて、どうしようもなく体が火照る。ぬるりと口蓋を舐められれば、頭の芯まで痺れてここがどこかも忘れてしまった。
 光る糸を引いて一旦唇が離された時、つい寂しくなって私から口づける。
「……もしかして俺、試されてる?」
「え?」
「こんな可愛いことされたら……もっと激しい口づけ、したくなる」
「ぅっ、ん……、ナラン……」
 ノールの監視の目なんかどうでもいい。今はただ、夫の熱を感じていたい。

 そうして心配を斬り捨てた翌日の晩餐会。なぜか私を見て異様にびくつく姫君たちを背に、ノールが清々しいほどの笑顔で「今度全ての物影に刺客対策用の罠を仕掛けておこうと思うんですよね」と言ったのは、また別のお話……。





【あとがき】BY松竹梅
長らく続いたキス企画も、これで最後ですね!
先にタイトルというかお題を決めてだだだーっと書いていくお遊び的な企画でしたが、いかがでしたでしょうか。私は書いていて楽しかったです(笑)

トリということで、このお話には私の紅花への願いを込めました。
一時は離れても、また皆さんと一緒に盛り上がれるといいなと思います。




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