『そこは誰の夢の淵』 著・松竹梅
輝くシャンデリアの下を、白、赤、青、黄色、と様々な色が過ぎる。淑女が纏うドレスは熱帯魚のように揺らめき、私の心を和ませてくれた。
今夜のパーティはいつにも増して賑やかだ。広いホールには招待客がひしめき、口々に祝いの言葉を述べている。自分も主催側の一員なのに、さすがだなぁなんて感心してしまった。
こう思うのは、私が養子だからなのか、それとも今の立場に馴染めないからなのか……。
間宮家当主――間宮定継の誕生パーティは、冗談みたいに規模が大きい。
(あのドレス、着てみたいなぁ。あ、でもあっちのほうが兄さんは好きそう)
あれやこれやと考えている内、一つの間違いに気づいてハッとする。その後すぐに顔が熱くなって俯いた。
(また『兄さん』って呼んじゃった)
今はもう、私の旦那様なのに。こんな調子でいつまでも正せないから、兄さん……じゃなかった、定継は困った顔をする。
(でも、あの困った顔も好き)
こんな意地悪な内心を、定継は知らない。知ったとしても、私を天使と呼んではばからない彼のことだから、たぶん「そんなところも素敵だよ」なんて甘い言葉を囁いて終わるだろう。
「でもね、定継。天使はこんなに、嫉妬深くないんだよ」
私の毒のこもった囁きは、少し離れたところにいる定継の耳には届かない。だって定継は、今グラマラスな美女の相手で忙しいから。
「あんなに可愛らしい女性と結婚できた定継が羨ましいわ」
「はは。お前は昔から可愛いものに目がないからな」
大学時代のサークル仲間だったという美女は、ふくよかな胸をおしげもなくさらす大胆なデザインのドレスを着ていた。豊満なそれが、今にも薄い布地から飛びだしてしまうんじゃないかと心配になる。
彼女が心配なんじゃなくて、それを定継が見ると思うと、嫉妬心で歯噛みしそうになった。一度深呼吸をして気分を落ちつかせる。
(なんでこんなに、そわそわしちゃうんだろう。私たちは確かに愛しあって結婚したはずなのに、どうして……)
華やかなドレスは好きだ。内面の醜さを隠してくれる。
それでも本性がバレるのが恐くて目をふせれば、今夜もまた勘違いをした人が感嘆の息を吐いた。
「まあ、なんて儚げで可憐な方でしょう」
「相手があの美しい方なら、たとえ義妹だったとしても、妻にと望んだ気持ちがわかる」
周囲のひそひそとした囁き声が、私の胸を抉る。称えられる度に、実際との差を意識して勝手に落ちこんだ。
私は全然、可憐じゃない。可愛くもない。天使じゃない。――私は完璧な間宮家当主、間宮定継の嫁にふさわしくない。
否定の言葉を連ねれば、息苦しさで眩暈がした。
「っ」
最近眠れていないせいか妙に胸が痛い。ドレスの前を握り、浅い呼吸を繰りかえす。
やがてふらりと倒れそうになった瞬間、さりげなく伸びてきた腕に体を支えられた。
「君たち兄妹は、本当に悩むのが好きだね。趣味なのかな?」
からかいを含んだ囁き声が、私を現実に引き戻す。涼やかでいながら、どこか粘度も感じさせる響きだった。
怯えた時のように彼から目を逸らせない。
「――春人さん」
みんなは、彼を「その名のごとく暖かい人だ」と称えた。しかも人格者なだけじゃなくて、兄さんと主席争いをしたくらいの秀才。
でも私は……正直に言えば、彼が少し恐い。
さらりと流れるストレートの黒髪、その下で瞬く切れ長の黒い瞳、すっと通った鼻梁――全て計算され尽くしたようにカッコイイ。柔らかな笑みは、誠実な青年そのものだ。
それでも私は、いまいち信用しきれないでいた。だからなのか、その名を呼ぶ度に落ちつかない気分になる。
「……春人さんは、今日は来ないって聞いてました」
「早めに仕事が終わったから、浮かれきった定継の、だらしのない顔をからかいに来てやったのさ」
「兄さ……定継は、浮かれてなんかいませんよ」
「あれのどこが浮かれていないように見える? さっきから君の自慢しかしてないじゃないか。はは、あそこまでいくと気持ち悪いよね」
「……春人さんは兄さんの親友でしょう。そんなこと言っていいんですか」
「俺だから許されるんだよ。むしろ俺が言ってあげないと定継の暴走は止まらないだろう?」
春人さんはだいぶ酔っているのか、ゆらりとグラスを傾け、果実酒を口に含んだ。ふう、と軽く息を吐き、ついでのように呟く。
「恋は盲目とはよく言ったものだ。同類として哀れでならないね」
「……どういう意味ですか?」
「君も苦しいだろう? 綺麗なだけの存在だと思われるのは、すごく窮屈だ。同時に君は、定継を哀れんでいる。あとは、んー……申し訳ないって気持ちもあるのかな」
「……」
酔っているからなのか、今日の春人さんは容赦がない。試すような言葉に煽られ、下唇を噛みそうになる。
「今夜の春人さんは、意地悪ですね」
「ん? 違った?」
違わない。だから苦しい。春人さんは、それをよく見抜いている。
(なのに兄さんは全然気がついてないんだから、おかしなものだよね)
可哀想な兄さん。私みたいな一族の役に立たない、しかも嫉妬深い女に囚われて、結婚までしてしまった。
「私が諦めたあの時に、逃げてしまえたら良かったのにね」
切なさを溜息と共に吐きだす。すると一瞬だけ、頭の奥が痛くなった。
定継を見つめすぎて、視神経が疲れてしまったのかもしれない。
(あれ、そういえば)
眉間を揉んでいた私は、ふいに浮きあがってきた疑問に、はたと動きを止めた。
(『あの時』って、具体的にはいつからいつまでだっけ)
少し前、私は交通事故にあった。そのせいで数年間の記憶が抜けている。
私としては「叶わぬ恋だ」と身を引いたところで終わっていたのに、起きたら突然恋人同士になっていたのだから、まったく人生とは奇妙なものだ。
こんな奇跡みたいな展開があるとわかっていたら、幼い頃の私は狂喜乱舞していたに違いない。
(それにしても……どうして、こんなに思い出せないんだろう。あんなに泣いて諦めた気持ちを、また蘇らせるくらいだから、相応の出来事があったはずなのに……)
ずきずき、ずくずく、頭の奥が痛む。……というより、疼く?
酔いが回ったのか、変な気分だ。
思い出したいと願っているのに、一方では一生懸命蓋をしようとする私もいるような……嫌な感覚。
思わず自身の両腕をさすると、グラスを傾けた春人さんが、詩を口ずさむ調子で言った。この人には、こんな不思議な響きがよく似合う。
「定継は、可哀想な男だ」
「何度も言われなくても、重々承知していますよ。私なんかと結婚したせいで――」
「いや、定継が不幸なのは、今が幸せだからだ」
「幸せだから、不幸……? なんですか、それ」
「理解される悦びは、時に苦痛に勝るんだよ。知られたくないけれど、同時に知ってほしいと思ってるんだ。俺たちみたいな歪んだ人間は、特にね」
よくわからないけれど、尊敬する定継が侮辱された気がして、言いかえさずにはいられなかった。
「私は春人さんよりも、兄さんをわかっています。兄さんは不器用なほどに真っ直ぐな人。だから私から逃げられなかったんです」
「ああ、確かに深みにはまってるね。ずぶずぶと、面白いくらいに」
この違和感はなんだろう。言葉のキャッチボールができていない気がする。
(昔から私に対してはどこか不思議な人だったけれど、最近はそれに拍車がかかっているような……)
だけど単なる酔っ払いの戯言として聞き流すこともできなかった。
なんだか、今夜はやけに引っかかる。
(痛っ! また、さっきの頭痛……?)
痛みに呻いて俯けば、グラスを持つ私の指先が、なぜか赤く染まって見えた。鉄くさい臭いが鼻先をかすめる。
ああ、本当に――懐かしく、忌々しい臭い。
「懐かしい……?」
ワタシノ指ハ、イツ、赤くソマッタノカ。
ダレノ肌ヲ、裂イタノカ。
――頭の中の変換機能が壊れてしまったみたいに、ぱらぱらと文字が降り積もってくる。一文字一文字が酷く重い。
急激に気分が悪くなり、今度こそ体が倒れかける。
けれど冷たい床の感触を覚悟していた私の体は、次の瞬間、力強い腕に抱きこまれていた。
「おい、具合が悪いのか?」
「ん、兄さん……」
恋心がそう感じさせるのか、兄さんの声は絹みたいに滑らかで、柔らかく聞こえる。同じ蠱惑的な声でも、春人さんの抵抗力を奪うようなそれとは違う。いつも私を安心させ、甘やかしてくれる。
(あ、良かった。指……なんともない)
お酒を飲んだせいで、変な幻覚を見てしまったらしい。
安心して力が抜けると、兄さんは私を抱え直し、心配そうに眉根を寄せた。
そうすると、日本人にしては彫の深い顔立ちは、必要以上に憂いを帯びて見えた。
(放っておいたら、また世界一の名医を呼ぶとか言いそう)
確信に近い予感。私は先手を打って、早々に自己申告をすることにした。
「風邪じゃないよ。熱もないから安心して」
「ならいいが……」
そう言いながら、ちっとも『良い』顔はしていない。
目顔で問えば、定継はいじけているといってもいい感じで白状した。
「はあ、本当は部屋に閉じこめておきたかったくらいなんだぞ。外界の空気に触れさせたくなかった」
「無菌室に入れられなくちゃ生きていけないほどのお嬢様じゃないよ。それとも定継は、そういう私でいてほしいの?」
冗談で言ったのに、定継はまるで不意を突かれたみたいな顔をした。だけど、一瞬のことだ。すぐにいつもの、優しい兄の顔でクスリと笑う。
「いや、俺はいつも元気いっぱいな、明るいお前が好きだ。……そうじゃないお前も、好きだがな」
「はは、私も、定継の全部が好きだよ」
「こら。そんなこと言われると……」
定継の両腕が、するりと下りて、腰に回される。密着した分、激しい胸の鼓動を感じられた。
「だ、だめだよ、定継。みんな見てる」
軽い音を立ててこめかみに口づけられる。
そこから定継は、小鳥が啄むようなキスの雨を降らせ、耳にまで伝い下り……最後は耳殻を、少しいやらしく食んだ。
「いたっ。……定継?」
「俺以外の男に触られた罰だよ」
「見てたの? でも、あれは春人さんだからで……」
「関係ない。春人も男だ」
呆れていると、すかさず春人さんもつっこみを入れる。
「あれ? 俺のことは信用してるんじゃなかったっけ」
「それとこれは別の問題だ。特に最近のお前は、俺の望まないことをするしな」
(望まないこと……?)
「はいはい。ごめんね、もうしないよ」
「本当にわかっているのか?」
「わかってるわかってる。あ、そういえばプールサイドで特別な演出があるんだろう? そっちのほうで、君の秘書が呼んでたよ。だいぶ慌てていたから、早く行ったほうがいい」
「そういうのは早く言え」
「あはは、酔ってるせいですっかり忘れちゃっててさ。それはそうと、定継、もう浮き輪はつけないで大丈夫なのかい?」
「そっ、そんな昔のことを話すな! 今は泳げるし、そもそも今日泳ぐ予定はない!」
「なら安心だね。たしか彼女も泳げなかったはずだろう? だから二人揃って溺れるんじゃないかって心配してたんだ」
「はぁ、泳がないと言っているだろう」
「もし溺れても、人工呼吸で助けてあげるよ」
「目が覚めたら地獄だな」
「極楽を見せてあげよう」
「そんな新境地は開拓したくない。……じゃあ、また後でな」
私にも何か手伝えることがあるかもしれない。
そう思って兄さんの後を追おうとした時、後ろから楽しげな声が聞こえた。
「はは、定継はいつまで溺れ続けるんだろうね」
「え、ううん、本当に今の私たちは泳げるから……」
「そう?」
言葉通りの意味あいに聞こえないのはどうしてなのか。
春人さんは酔っているはずなのに――いや、そもそも酔ってなどいなかったのか、すっと壁際から離れ、私の足下を指さした。その指先を、くるりと一回転させる。
「――ほら、そこはもう、狂った夢の淵だ。一度浸かった君たちは、もう二度と抜け出せない」
「? ……いっ」
さっきとは比べものにならないくらいの痛みが脳天まで突き抜ける。
一瞬の間に景色が切りかわり、全てが変化した。驚愕に目を見開く。
破れた私の服。
誰かの血で染まった指先。
腿を伝う白濁の液は、たらたらと絶え間なく流れる。
血と精と、涙が混ざりあった――凌辱の臭い。
「痛いっ」
幻覚を終わらせたくて叫ぶ。
すかさず寄ってきた春人さんが、私へと手を差しのべた。
「大丈夫? 休憩室に行こうか?」
春人さんが気遣いの笑みを浮かべた瞬間、なぜか怖気が走った。女性としての危機感をおぼえたとかじゃない。それよりも、もっと酷いことを私たち夫婦にしようとしている気がしたから、恐くなった。
「だ、大丈夫。もうなんともないです……」
「本当に?」
「はい! なので、えっと……また後で!」
もう春人さんと話している余裕はなかった。私は一目散に定継がいるであろう場所まで駆けていった。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
だいぶ走ったのに、定継が見つからない。
(兄さん、兄さん……どこにいるの。早く会えないと、私、おかしくなる……)
人気のない廊下に出ると、ぐったりとして壁にもたれかかった。息は酷く乱れているし、変な汗をかいている。
風邪じゃないのに、体がおかしい。
それとも、おかしいのは精神面なんだろうか……。
幻覚を見るなんて、普通じゃない。
「しばらくここで休んでよう……」
と一人呟いた直後、曲がり角の向こうからカツンという音が響いた。
それが段々と近づいてくるにつれ、ほっと胸を撫で下ろす。
足音だけで誰だかわかってしまう自分が、少し恥ずかしい。
今も昔も、私は彼に夢中だ。
「そんなところで休むくらいなら、俺と一緒に帰ったらどうだ?」
「兄さん……」
「無理をするなと、あれほど言っただろう」
「でも、本当に風邪とかじゃないの……。そうじゃなくて……」
心の問題なんじゃないか、と言うのは躊躇われた。
言ったら、確実に定継を心配させる。
定継は押し黙っていた私の顎を持ち上げ、優しい口づけをした。幾度も幾度も、唇と一緒に心も開けと、甘く命じるように。
「俺に隠しごとができると思っているのか」
「ん、だって、こんな悩み……」
「言うまで解放しない」
頭がぼんやりしてくると、意地を張っていられなくなって、ついに縋る口調で言ってしまった。
「ねえ、兄さん。私、なんだか最近おかしいの」
「具合が悪いのか?」
「ううん。なんというか……何もないのに、胸がざわつく時があるんだ。今が幸せすぎるから、逆に不安になるのかな」
「……」
困ってしまったのか、兄さんは口をつぐむ。
また少し不安になった私は、甘え過ぎかなと思いつつ、たくましい胸元に頬を預けた。
「抱きしめて、兄さん。不安がなくなるくらい、ぎゅってして」
「それは無理だ」
「え、どうして……」
弱っていたせいか、拒否された悲しみで涙が浮かぶ。
兄さんはその目端に滲んだ涙を吸いとり、濡れた唇を笑ませた。
「もう『兄』としては、お前を抱きしめられない」
すぐに意図を察して、またもや失敗してしまったのを知る。改めて呼び直そうとすると、なぜだか妙に恥ずかしくて頬が火照った。
「抱きしめて、定継」
言い終わった次の瞬間には、素早く引き寄せられ、抱きしめられていた。
すぐに覆いかぶさってきた唇は、興奮を表すように熱い。
もう何度も味わっているだろうに、定継は最初の頃の勢いそのままに、私の口内を貪り尽くした。
ぬめる舌で私のそれを絡めとり、痛いくらいに吸いあげる。こねまわす。
呼吸も唾液も、全てが欲しいと、獣めいた目が訴えていた。
危うく呼吸困難になりかけ、とんとんと広い胸を叩く。
「に、兄さん、比喩じゃなくて溺れそう。ちょっと休憩させて」
「……悪い。もう半日もこういうキスをしていなかったから、つい夢中になってしまった」
「はは、まるで中毒だね」
「よく知っているじゃないか」
くすくすと笑いあいながら、今度は互いを慈しむ柔らかい口づけを重ねる。
その最中、定継が冗談っぽく言った。
「ああ……、本当に溺れればいいのにな」
この幸せが私の、恋情と妄執の果てに築かれたものならば――確かにここは、狂った夢の淵だ。
【あとがき】BY松竹梅
時期は『選択される定め』のハッピーエンド後です。
この時点でのヒロインは定継の変態的な面をきれいさっぱり忘れてしまっているので、
定継は幸せな反面、複雑な心境なんじゃないかなと思います。
どこまでいっても完全な幸せにはなれない二人ですが、
そんな不器用な兄妹が気に入っています。